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金物の町の鍛冶職人

16世紀末、豊臣秀吉が兵糧攻めを行い約2年をかけて勝利したことでも知られる三木合戦から三木の街を復興させるために大工が集まった。しかし道具が足りない。そこで大工道具を作り始め、その技術と工人がこの地に根付いたことが金物の町の起源とされる。現在でも、鏝(こて)や左官、鋸(のこ)、鑿(のみ)、鉋(かんな)さらには、包丁や鋏(はさみ)、鎌などが作られている。それぞれ作り方も技術も異なるため、職人は一つの金物のプロフェッショナルとして制作をし「研ぎは研ぎ屋」、「販売は問屋」など役割ごとに分業化され様々な人の協力関係によって産地が成り立っていた。町には「金物神社」もあるほど金物が町に根ざしている。
さて、今回の主役である、田中誠貴(しげき)さんの先代は、明治末期に鎌を専門にした鍛冶屋として創業し、現在は4代目にあたる。

 

包丁になる前の鉄

包丁になる前の鉄

包丁の持ち手の部分を生み出す工程

包丁の持ち手の部分を生み出す工程

包丁の原型がうまれてきた

包丁の原型がうまれてきた

 

長男として生を受け、家業を継ぐことに反発した青年時代

「祖父と親父、職人さんは工場におって、おかんも真っ赤な鉄をジューってする焼き入れをしとったんですよ」幼いときから家族が工場にいる光景が日常だったと振り返る。だから長男である自分が継ぐことは目に見えていた。しかし「なんで継がなあかんねん」っと決まった道があることに対して反発したこともあったそうだ。気持ちに変化があったのは、可愛がってくれてた祖父の薦めで、福井に鍛冶の修行にいった18歳のとき。親方の刃物を叩いている背中が、妙にかっこよく思えたのである。そのとき、自分もこの道を進もうと決心したのだった。「修行したのは3年程。ホンマはお礼奉公(師事した恩返しとして、一定期間働き続けること)もするつもりだったが、親方が『そんな時代遅れなことはせんでええ。早く帰って親父を手伝うたれ』と言ってくれたため、実家に戻ってきたのであった。」

 

『鎌から包丁』へのビジネスシフト

「鎌は先がないと親父が言っとったんですよ。高校生のときくらいから中国産の安い鎌が入ってきてホンマに仕事がなかった」当時の制作物のほとんどが鎌であったため、ピンチを迎えていたのだった。だから、修行先も鎌ではなく包丁を作る鍛冶屋を選んだ。実家に帰ってきてからは、徐々に包丁の割合を増やしていった。「7年前(2012年)に親父が死んだときに、包丁のみに切り替えたんです」と話す。「よく世代交代したら取引先がなくなるって聞くけど、鎌と包丁の売り先は違って、売り先も自分で開拓してきたから世代交代をすることは難しくなかった」と上手に家業の方向性を変えることができたと話してくれた。

職人 = 『 ものづくり+マーケティング 』

田中さんは職人であり戦略家でもある。商品開発は徹底的にユーザー視点で行ない、「お前、何しとんねん」と言われることを覚悟で新しいことにチャレンジし続けている。例えば新素材がでたら、サンプルを作り、漁師などの想定されるユーザーからのフィードバックを重ねて商品化する。はたまた、嗜好性の強いコアユーザー向けのマニアックな包丁の製造も行う。ユーザーの大半は実用性を重んじる職業人や主婦だが、売上は嗜好性の高い包丁の方が多くを占めている。『TANAKA』の包丁が欲しいと世界中から問い合わせがあるほどである。嗜好性の高い商品は話題性もあるため、そこから他の商品を認知する人も多いという。日本や三木の包丁だからではなく“田中一之の包丁だから” 買いたいというコアユーザーを育てながら話題性のある商品を作り、毎日使いの包丁の認知度も向上させる。そんな戦略的な職人であるのだ。

 

工場の中は暑いため、風通しをよくするために壁は格子になっている。冬は寒い。

僕の後ろについてくる人が現れるまで

包丁に切れ味をもたらす鋼(はがね)が貴重だった日本では、鉄で鋼を挟んで包丁を制作する技術が発展した。それに付随して研ぎの文化も芽吹き、少ない資源を有効に且つ長く使える包丁文化が根付いてきた。資源の乏しい日本の職人はその技術を磨くため、さぞかし知恵を絞り苦労したことだろう。田中さんの祖父は戦後、電力使用料の制限がある中でものづくりを続けた。わずかな電力を有効に使うため一度にできる作業を分散し、昼はモーターを回し、夜は音の鳴らない仕事を続けとても苦労したそうだ。様々な不足や制限を乗り越え、豊かな社会になった現在、職人の数は著しく減少している。市場や産業構造の変化もあるが、苦労してきた祖父の世代から自分の子や孫に継がせたくないという思いで、継承を拒んだことも原因の一つではないかと田中さんは話す。自分が楽しそうに新しいチャレンジを繰り返し、次の世代の若者が後ろについてきてくれるまで。田中さんの挑戦は今後も続く。