900年以上前からこの土地で、和紙を作り続けている。これってスゴイことではないか。「アメリカは独立してまだ250年弱」と思ったとき、この地の時間軸の長さに驚き、目の前にある和紙がただの紙キレではなく、我々の祖先の努力や知恵が蓄積された歴史が脈々と流れている和紙に思えた。
杉原紙研究所の藤田尚志 (ふじたひさし) さんのお話はそんな言葉から始まった。
「明治時代になると洋紙が普及し、紙漉きより百姓の方が儲かるようになりました。そして最後の1軒が1925年に終了したんです」それ以降、太平洋戦争や高度経済成長期の波にのまれ、すっかり幻の紙となっていたそう。最後の1軒が姿を消したちょうど同じ年、日本の民俗学の父、柳田國男が雑誌「民族」を創刊している。近代化が進むに連れ、日本の文化が失われていくことを危惧し調査旅行を繰り返していた頃だった。当時は目まぐるしく新しいものが入り、古いものが失われるというサイクルを繰り返し、生活様式もどんどん変化していったのだと想像する。
かつては全国に流通し、武士のステータスシンボルとして使用された時代もあるほど、貴重で質の高い紙とされていた杉原紙だが、実は近代まで発祥地は謎に包まれていた。「杉原紙」という名前は、「杉原で生産された紙」ではなく「杉原『式』で生産された紙」として、同様の技術を用いて様々な産地で作られていたのである。現代でいうオープンソースのような状態で、高い紙漉きの技術を全国に広げ(もしくは広がり)、「杉原紙」という名称で各地で生産され流通していたのかもしれない。
しかし1940年、和紙の研究者であった壽岳文章(じゅがくぶんしょう)氏らが杉原紙のルーツを求めて杉原谷村に訪れ、その後の調査で杉原紙の発祥がこの地であったことが実証されたのだった。すでにその頃は紙は漉かれていなかったが、この地域の歴史を認識する大きな出来事だった。たくさんある杉原紙の産地の一つから、杉原紙の原点となったのだから。
そして1970年、大阪万博が開幕しマクドナルドやケンタッキーフライドチキンの1号店もオープンした年、半世紀ぶりに紙漉きがこの小さな村で再現された。大正末期まで職人だった方がいたことも功を奏した。その2年後に、町立の研究所が立ち上げられ、京都の黒谷和紙など他の和紙産地の技術協力等のサポートを受けながら、生産を復活させたのである。
元々は役場の事務職員だった藤田さんが職人の後継者として杉原研究所に入ったのは、2000年のこと。「自分の力で、ものづくりをすることは、パソコンを打つことよりかっこいいと思って入りました」。町立の研究所のため、役場の職員というポジションの職人である。「町立だからこそ、文化を守ることを最優先してものづくりができるんです」と藤田さんは語る。実はその背景には、深いものづくりに対する想いがあった。
杉原紙に使われる、原材料のコウゾの大半はこの地域で栽培されている。海外産や他地域のコウゾを使用する和紙産地もある中で、原材料の郷土性を意識して現在も作っている。しかしコウゾを手に入れることは簡単ではない。そのために「一戸一株栽培運動」と題して、村民にコウゾの栽培を依頼し、研究所で収集・処理され、紙にするという地域の連携プレーシステムを昔から構築してきた背景がある。現在はメンバーの高齢化に伴い減少はしているものの今でもこの仕組みでコウゾを栽培しているという。
また今では全国的にほとんど見られない、「川さらし」も継承している。これは真冬の川に原料を一昼夜浸して、冷水、日光、雪など自然を利用してより白い紙に仕上げるためのプロセスである。
自然な白さを基調として作られてきた杉原紙。そのために寒い冬場に川に入り、川さらしをしたり、紙に白さを加えるために昔から貴重な米粉を混ぜたりもしていた。化学的に漂白された白とは違う、自然で美しい白さを目で見ていただきたい。今では用途に合わせて紙を提案したり、作ることも可能だそうだ。壁紙や、インテリア、手紙、折り紙、表彰状、卒業証書にも使用されてきた。和紙全般に言えることだが、一般的なパルプ紙に比べ、丈夫で長持ちするとされているため、何か長く使うものや、長い間残したいものに向いているのかも知れない。
何世紀にも渡り、無名の職人によって現在まで継承されてきた伝統と技術。様々な人の協力によってできているからこそ、誰か一人が名を出し作為を込めて個性を発揮する余地はなかった。だからこそ自然に逆らわない健康的で美しい模様がそこに生まれてきた。「杉原紙といえばこれ!という核となる商品がないことは産地としての課題です」と藤田さんは語るが、その言葉にこそ脈々と継がれてきた杉原紙の特徴が現れているように思えるのであった。