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兵庫県の中東部に位置し、古くから京都への交通の要として栄えてきた丹波篠山市。篠山城を中心とした城下町は、その町並みを歩けば、今も残る京文化からの影響を随所に感じることができる。

神戸、大阪、京都へ90分で行くことができる立地も手伝い、豊かな食を堪能できる地域としても多くの人が訪れるも、バブルの崩壊と阪神淡路大震災を経て人々の足は遠のいた。
そんな町に、江戸時代に始まった「王地山焼」(おうじやまやき)という磁器がある。
その歴史を辿ると、その年表には長い空白が見られる。1869年(明治2年)に途絶えたが、不思議なことに1988年に再興しているのだ。100年以上もの間途絶えていた磁器窯は、いかにして再び火を灯したのだろうか。

王地山公園にほど近い河原町の町並み

町の支援により再興した王地山焼

王地山陶器所。それが唯一王地山焼を現代に残している窯だ。窯主である竹内保史さんと児玉玲央奈さんの二人で営んでいる。

緑に囲まれた王地山陶器所

王地山焼の起源は、江戸時代末期の1818年(文政元年)頃までさかのぼる。

当時の篠山藩主だった青山忠裕(あおやまただやす)が王地山の地に、京焼の陶工・欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)を招き、窯を開いたのがその発祥とされている。

当初から中国風の青磁、染付、赤絵を主とした磁器窯・王地山陶器所として名声を博したが、藩の廃止とともに明治2年に窯の火は途絶えた。

地域の文化を継承しようという地元の方々の声がきっかけとなり、篠山町(現丹波篠山市)が昭和63年に再興し、現在は丹波篠山市の指定管理により一般社団法人ウイズささやまが運営している。つまり、竹内さんと児玉さんも職員ということになる。

窯主の竹内保史さん。30年近く王地山焼一筋で作陶を続けている

丹波篠山市はいわゆる平成の大合併の先駆けとして、1999年に4つの町が合併してできた市だ。同じ市内を産地とする丹波焼は鎌倉時代からはじまる日本六古窯であり、王地山焼の名前にスポットが当たることは少なかった。

陶芸部をつくった青年が、王地山焼という文化をつくる

「最初は昔の型とか、師匠のと同じもん作ってみろとか、そういうとこから始まるわけです。自分で設計することはなく、もうひたすら一日に何十個も同じぐい呑みを作ったりしていました」陶器所に入ってから約12年の間、竹内さんは師匠とともに窯を守ってきた。

師匠が窯を離れたあとは、一人で窯を続けた。

竹内さん作陶した小皿。繊細で美しい仕事が光る

佐賀で生まれ大阪で育った竹内さんは、高校のころから陶芸家を志していたという。

「美術系の高校に行っててね、最初は油絵を描いてました。でも周りのみんなの絵と比べたら自分のなんてたいしたことなくてさ。それで絵は早々にやめて、陶芸をはじめたんです。と言っても、授業もなかったので、自分で陶芸部つくったんですよ(笑)」当時を思い出す竹内さんの表情がやさしく緩む。そんなまっすぐな高校生は、卒業すると回り道もせず、先生の縁を頼りに王地山陶器所に入った。

「まあ2,3年で飽きるかななんて思って、王地山焼のことなんて何も知らない状態で篠山に来ました。もともと人混みが苦手で、この町が結構居心地良くて居着いちゃいましたね」それから28年、青年はすっかり王地山焼を担う職人になった。

大阪から来た青年はこの窯で職人になっていった

王地山焼は石を砕いた粉を粘土にした磁器土で作られる磁器で、たたくとキーンと高く硬質な音が響く。

「陶器の器って物語を作りやすいんですよ。土はどこから取っていますとか、登り窯で焼いていますとかね。それに比べて、磁器は地味でね。独自性を出せる面が限られちゃうんです」青磁の色も他の産地のものと大きくは変わらない。だからこそ、作家としてのオリジナリティで勝負するしかないと竹内さんは考えたという。師匠に鍛えられた職人としての忍耐力と、部活ごと作ってしまうくらいの作家としての独創性を持ち合わせた竹内さんにとって、打開できる光は見えていたのだろう。

「時間が経っていた分良くも悪くも、これが王地山焼だという定義が曖昧でした。なので、自分が考えた形を師匠が認めてくれれば、王地山焼として作らせてもらえて。他の歴史ある産地と違って、今が王地山焼というジャンルを創り上げていく時期なんです」

まだまだ篠山地域に住んでいる人でも、王地山焼のことを知らない人は少なくない。そのことに少し悔しそうに竹内さんは話す。

一年でつくる新作の数は約100。職人の仕事場には時間の蓄積が映し出されている

はじめての弟子、そしてデザイナー。人が陶器所を更新していく

阪神淡路大震災の後、経済的にも辛抱が強いられる時期を、竹内さんは一人で黙々と器を焼き続けた。後継者不足は言うまでもない。

そんな時間がしばらく続いた2009年、一人の青年が王地山陶器所の門を叩いた。京都の学校で陶芸を学んでいた児玉玲央奈さんだ。

「うちで働きたいという人は初めてでした。まもなくアパートを引き払うというタイミングで来てね(笑)。働けなければ実家の茨城に帰らなきゃならないっていう、もう必死な状態だったんですよ。それで雇って。それから二人でやってます」

竹内さんがそうしたように、児玉さんも師匠である竹内さんの作品をなぞるように何度も繰り返し作り、一人前になるまで腕を磨いていった。特に児玉さんは絵をつける才能に長けていた。

王地山焼の歴史も伝えていきたいと語る児玉さん

2016年に丹波篠山市の職員・小山達朗さんが王地山焼を盛り上げようとトランクデザイン代表の堀内康広を王地山陶器所に引き合わせる。児玉さんはそのプロジェクトを担当することになった。

「僕も一人で器を仕上げられるようにはなっていましたが、デザイナーさんと一緒に商品を開発するのは初めてで不安でした。けれど、王地山焼をもっと知ってもらえる機会だという期待もありました」

インスピレーションが伝統工芸を更新していく

まず現代のライフスタイルや食卓のシーンをイメージしながら、膨大な数の王地山焼のラインナップを洗い出していった。そして、全国の窯元の見せ方や売り方、伝え方をともに学びならが、どんな商品が今求められているか生活者の視点で考えていったという。

技術や伝統を優先しすぎてしまっている部分を、相手の視点に立ってひとつずつ埋めていくように。

「一輪挿しはどうだろう」「なんでも飲めるカップって使いやすいよね」「取っ手をなくせば幅が広がるかも」そんなコミュニケーションを一年以上密に重ね、試作を繰り返す日々が続いた。そして生まれたのが、「OJIYAMA CERAMICS」シリーズだ。

商品のコンセプトは「シンプルで使いやすい」

カップとボール、プレートの3つの形を基本に、デザインとサイズ、青磁から白磁にかけたカラーがそれぞれ3種ずつ。合計81種もの圧倒的なバリエーション展開だ。王地山焼の伝統を活かしながら現代的な解釈を加え、より現代のテーブルに合うシンプルな洋食器テイストに仕上げている。これまで作ってきたものとは異なる無地のもの。絵付けを得意とする児玉さんには、大きなチャレンジだった。

「陶器所でも販売していますが、これまでとは違う層の方に買っていただき、展示会でも好評です。青磁の濃淡や鎬、面取など王地山焼の美しいと感じる原点が残っていて、OJIYAMA CERAMICSを通して王地山焼の魅力を知っていただけたらと思います。」

和食にも洋食にも、幅広く使える使いやすさ

自分だけに秘めた目標を追いかけて

「今それを作っている最中ってことなんですかね、もしかしたら」王地山焼とは何かという質問に竹内さんはこう答えた。

100年後に振り返った時、あの時代に竹内って男がいて作っていたのが王地山焼なんだと言われる。王地山陶器所の営みは、そういうことなのかもしれない。

家で時間をかけて食事を作り、合う食器に盛り付けて食卓に出す。そんな暮らしの真ん中にあった文化は少しずつ薄れている。竹内さんは豊かな食卓の時間を継承していくためにも、これからも食器を作っていきたいと話す。

より多くの人に王地山焼を届けていくにはすぐにでも人手も必要なはず。それでも「三人目を採用する予定はないんですか?」という問いには、「自分的に目標があって、それを達成してからってというところがあります」と、詳しくは教えてくれなかった。職人は言葉ではなく、作品の中に想いを宿す。王地山陶器所が私たちの食卓にどんな器を届けてくれるのか、楽しみにしていたい。

 

ディレクション:TRUNK DESIGN Inc
編集・撮影:TRUNK DESIGN Inc
文章:柳瀨武彦

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