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兵庫の伝統工芸・地場産業 物語のある暮らし

兵庫県内には魅力的な伝統工芸品が今も数多く受け継がれています。
本記事で紹介する国、県指定の伝統的工芸品は、いずれも古来から郷土の自然と暮らしに根付き、はぐくまれ、「美」と「用」を兼ね備えた生活用品として、今日まで受け継がれてきたものです。

日本海と瀬戸内海を結び、豊かな自然に囲まれた兵庫県。
そこは、受け継がれた歴史と文化の上に、40種もの地場産業が集まるものづくりが盛んな地域です。

本記事では、2011年から産地を巡り、さまざまなつくり手と出会う中で、たくさんの商品開発や国内外へのPRを行ってきた兵庫の地場・伝統産業から新たなライフスタイルを生み出していくローカルクラフトプロジェクト「Hyogo craft」が厳選した兵庫県の伝統工芸品や地場産業を紹介します。

 

播州そろばん

「播州(ばんしゅう)そろばん」は兵庫県小野市を中心に製造されています。
播州そろばんのはじまりは、天正年間(1573~91年)の頃。安土桃山時代、豊臣秀吉の三木城攻略時に、大津に逃れた住民がそろばんの技法を習得し、地元に帰って製造を始めたのがきっかけと言われています。近江商人で賑わい交通の要でもあった大津は、京都、大阪などの商業が盛んな土地に近く、算盤の生産が盛んな土地でした。

当初は、兵庫県の三木市周辺で製造されていましたが、その中心が徐々に小野市へと移り変わり、昭和35年には年間360万丁が生産されるなど、一大産地となりました。
100近くある製造工程を分業化させたことにより、大量に生産をすることを可能にしました。
播州そろばんは主に業務用として発展してきましたが、珠算の道具としてだけでなく、今では伝統的工芸品としても高い評価を受けています。

電卓などの普及により最盛期より需要は減りましたが、現在は子どもの教育ツールとして再注目されている、そろばん。
再燃するブームを牽引しているのが、小野市にある株式会社ダイイチ。製造企業が減少する中で、小野市で唯一そろばんに関わる事業だけを行っている会社です。

【つくり手の紹介】

株式会社ダイイチ 会長 宮永 英孝
▷ 小野市| 計算教育という文化を、世界に広げる。 これからの播州そろばん

 

丹波焼(丹波立杭焼)

「丹波焼」は、兵庫県篠山市今田の立杭エリアで作られている陶器です。
越前焼、常滑焼、瀬戸焼、信楽、備前などと共に「日本六古窯」の1つに数えられています。日本六古窯として八百年以上もの間続いてきた丹波焼は、その歴史の中で大きな転換期を何度か迎えています。

そのひとつが、昭和初期に始まった「民芸運動」です。庶民が使う器や生活道具の中に美的価値を見出し、美術品ではなく無名の工人が、民衆のために作る日用雑器の素朴な美しさをとり上げた活動は全国に広がりました。民芸運動家の柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチらは丹波焼の素朴な美しさを評価し、さらに面取りや鎬(しのぎ)といった丹波焼に新しい表現方法をもたらしたのです。

丹波焼の特徴は、なんといっても「灰被り」という独特の色と模様です。茶褐色の土肌と素朴な風合いを一貫して続けています。灰のかかり方や炎の当たり方によって、さまざまな色合いや模様が生まれるので、1つとして同じものは存在しません。また、他の陶器の多くが右回りのろくろで作られるのに対し、丹波立杭焼は左回りで作るのが主流。今もなお左回りで作られる陶芸家が残っている。

【つくり手の紹介】

俊彦窯 清水俊彦・剛
丹波篠山 |八百年のその先へ、丹波焼の過去を見つめ歴史を刻む

丹水窯 7代目 田中聡
▷ |丹波篠山市|自分が使いたいと思えるものを作る。粉引の質感を生かした丹波焼

省三窯 3代目 市野秀作
▷ 丹波篠山 |世代を超えた色への情熱が生む、多種多様な彩の丹波焼

源右衛門窯 市野太郎
▷ 丹波篠山 | 伝統を継承しつつ、新たな丹波焼の創出へと向かう

市野伝市窯 市野達也・弘通
▷ 丹波篠山 |草花を育てる植木鉢、植物の気持ちになって鉢をつくる

 

播州織

兵庫県中東部に位置する西脇市。日本列島のへそとも呼ばれる中心にあり、およそ4万人が暮らすこの地域は、加古川、杉原川、野間川の3つの川が流れ水資源が豊かであったことから、江戸時代から播州織という織物で繁栄しました。

西脇市の主産業である「播州織」の特徴は、糸を先に染め、染め上った糸で柄を織っていく「先染織物」の手法を用いていることにある。現在でも国内の先染織物の約7割を生産しており、その自然な風合いと豊かな色彩により、シャツなどのアパレルから、テーブルクロス、ハンカチなどさまざまな製品で採用されています。

播州織の歴史は、1792年まで遡ります。京都西陣から織物の技術を持ち帰った宮大工飛田安兵衛(ひだやすべえ)が地元・西脇に帰郷。自ら織機を作り、地域の農家が生産する綿花を使って織物づくりを広めていったことが起源とされています。水資源に恵まれた地理を活かし、やがて地域を代表する産業として広がり、明治時代には「播州織」と呼ばれるようになると、昭和には国外にも輸出するほどの一大産業として成長しました。

【つくり手の紹介】

東播染工株式会社 テキスタイルデザイナー 小野圭耶
▷ 西脇市 |生産現場とファッション市場を織る。テキスタイルデザインという仕事

 

マッチ

兵庫県のマッチ産業は、県内のマッチの全国シェアは約80%を誇ります。1827年にイギリスで発明されたマッチは、1855年にスウェーデンで現在のかたちの原型となる安全マッチが生まれ、世界中へ普及しました。
小ロット、多品種、高品質を得意とした日本では、明治維新の後、失業士族救済や国内産業振興のため、全国にマッチ工場が建てられ、輸出三大商品になるほどの工業製品となりました。

時代とともにライフスタイルが変化する中で、息長く続いている産地のひとつが、兵庫県です。
太陽を浴びて塩がつくられるように、マッチの軸となる木を天日干しする。海外に輸出しやすい神戸港が近いことに加えて、気候が安定している環境はマッチづくりに最適だったのです。
しかし、70年代中頃にいわゆる100円ライターが発売され、1973年をピークにマッチの生産量は減少。最盛期は66もの工場が稼働していた兵庫県だが、現在3つのマッチ工場が残るのみとなっています。

そんな中、1929年に創業の「神戸マッチ株式会社」と線香作りで約80年の歴史を持つ淡路島の「株式会社大発」、Hyogo craftを主宰し、神戸にあるデザイン事務所「TRUNK DESIGN」が共同で開発した、10 MINUTES AROMA「hibi」は、2019年度のGOOD DESIGN AWARDグッドフォーカス賞[技術・伝承デザイン]の受賞など、まだ道半ばではありながらも、国内外各方面から高い評価を得ています。

【つくり手の紹介】

神戸マッチ株式会社 代表取締役 嵯峨山真史
▷ 太子町|ものづくりとデザインの間に灯ったマッチの未来

 

線香

今では線香の約8割の生産シェアを誇り、日本一の生産地となっている淡路島だが、線香の生産が始まったのは江戸時代後期です。遡るとその生産技術を淡路島に伝え、戦前まで国内最大の産地だったのは大阪・堺です。

鎖国当時、中国大陸からの貿易品である香木は貿易港のある堺から輸入されていました。公家や寺が集まる京都や奈良に運びやすいという地理的要因、仏壇の一般家庭への普及も手伝って堺のお香産業は時代とともに繁栄していったのです。

江戸も終わりに差し掛かる1850年に、淡路島西部は堺と気候が似ていることから産地としての可能性を見いだされます。季節風により漁に出られない時期に家内工業が発達し、淡路島にも線香職人が次々と生まれていきました。

そんな中、太平洋戦争によってお香産業の状況は一変します。戦火により堺のまちは焼けたことにより皮肉にも、弔いのためのお線香が必要なときに、線香をつくることができませんでした。そんな時期に堺から多くの職人が淡路へと移ってきたといいます。

昭和30年代半ばには淡路島は線香生産量日本一となり、現在では全国生産量のうち約7割を占めています。兵庫県線香協同組合は、平成17年度から「あわじ島の香司」というブランド名を通じて、日本の香り文化や安心安全な技術力に裏付けされた品質の良い「線香」として、世界に通じるブランド力の向上を図っています。

線香の一大産地で創業83年を迎える株式会社大発の代表下村暢作(しもむらちょうさく)さんは、淡路島に14人いる香りのマイスター・香師の一人です。

【つくり手の紹介】

大発株式会社 代表取締役 下村暢作
▷ 淡路市|香りの島に生まれて。協業からはじまる伝統産業のみらい

 

王地山焼

江戸時代に始まった「王地山焼」(おうじやまやき)の起源は、江戸時代末期の1818年(文政元年)頃までさかのぼります。当時の篠山藩主だった青山忠裕(あおやまただやす)が王地山の地に、京焼の陶工・欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)を招き、窯を開いたのがその発祥とされています。

その歴史を辿ると、その年表には長い空白が見られます。1869年(明治2年)に途絶えたが、不思議なことに1988年に再興しています。
王地山陶器所。それが唯一王地山焼を現代に残している窯です。

【つくり手の紹介】

王地山陶器所 陶芸家 竹内保史
▷ 丹波篠山市|119年の時を超えて再び歩みだした王地山焼の現在地

 

播州三木打刃物

兵庫県の中南部、神戸市の北西に位置する三木市。
日本で最も歴史ある「鍛冶のまち」として知られ、播州三木打刃物と呼ばれる、鋸(のこぎり)・鉋(かんな)・鑿(のみ)、鏝(こて)・小刀は伝統的工芸品に指定されるなど、金物製造が盛んな地域です。

それぞれ作り方も技術も異なるため、職人は一つの金物のプロフェッショナルとして制作をしており「研ぎは研ぎ屋」、「販売は問屋」など役割ごとに分業化され様々な人の協力関係によって産地が成り立っていきました。

その起源となったのは、1578年(天正6年)羽柴秀吉の三木城攻め。城主・別所長治の三木城を攻め落とした秀吉は、焼け野原となった三木の復興のため、免税政策を行い、他地域に散らばった人々の呼び戻しを図りました。そこで、集まったのが、大工とその道具を作る鍛冶職人たちです。焼けた寺や家屋の復興が進み、三木の街が活気づいてくると、大工仕事がなくなり、集まった大工たちは京都や大阪などへ出稼ぎに行くようになりました。すると、他の地域に行った大工が持っていた道具の質が評判になり、鍛冶のまち・三木としての認知が広がっていきました。

【つくり手の紹介】

三寿ゞ刃物製作所 3代目 宮脇大和
▷ 三木市|三木金物の伝統を継いだ包丁。食卓を囲む人を笑顔にするものづくり

田中一之刃物製作所 4代目 田中誠貴
▷ 三木市|職人 = 『 ものづくり+マーケティング 』で播州刃物を作り売り込む

 

杉原紙(すぎはらがみ)

兵庫県の中央部多可町の北部・杉原谷で生まれたこの和紙は、1300年の歴史ある奈良時代の播磨紙の系統を引くと考えられ、今も古の技を受け継いでいます。

かつては日本で1、2位を競うほどの生産量を誇っており、武士のステータスシンボルとして使用された時代もあるほど、貴重で質の高い紙とされていた杉原紙だが、実は近代まで発祥地は謎に包まれていました。

隆盛を誇った杉原紙は、18世紀をピークに徐々に衰退の途をたどることになり、大正時代に一度途絶えています。
「杉原紙」という名前は、「杉原で生産された紙」ではなく「杉原『式』で生産された紙」として、同様の技術を用いて様々な産地で作られていたのです。国名を頭につけた「〇〇杉原」という紙が全国に出回り、「杉原」と言えば「杉原紙」のことを示すほど、杉原紙は和紙を代表する商品名の一つとなりました。現代でいうオープンソースのような状態で、高い紙漉きの技術を全国に広げ(もしくは広がり)、「杉原紙」という名称で各地で生産され流通していたのかもしれません。

しかし1940年、和紙の研究者であった壽岳文章(じゅがくぶんしょう)氏らが杉原紙のルーツを求めて杉原谷村に訪れ、その後の調査で杉原紙の発祥がこの地であったことが実証されました。すでにその頃は紙は漉かれていなかったが、この地域の歴史を認識する大きな出来事でした。

そして大阪万博が開幕した1970年、半世紀ぶりに紙漉きがこの小さな村で再現された。
大正末期まで職人だった方がいたことも功を奏した。その2年後に、町立の研究所が立ち上げられ、京都の黒谷和紙など他の和紙産地の技術協力等のサポートを受けながら、生産を復活させたのです。

【つくり手の紹介】

杉原紙研究所 和紙職人 藤田尚志
▷ 多可町|900年の消滅と復活。山奥で今も続く和紙づくり

 

その他兵庫県の伝統工芸品

和ろうそく

和ろうそくの起源は江戸時代にまでさかのぼります。「和ろうそく」は当初、姫路藩における藩産業として製造されていました。指定を受けた松本商店も明治10年(1877年)ごろに姫路城下の製造業者から分家し、その後、大阪の福島で製造を始め、戦後は西宮に移ったものです。現在4代目の松本恭和氏を中心に寺院の灯明用や家庭用の絵ろうそく等を製造販売しています。

淡路鬼瓦

淡路瓦の起源は、江戸時代初期1610年(慶長15年)にまでさかのぼります。1613年(慶長18年)に池田輝政の三男である忠雄が領主となって洲本市由良で成山城を新築した時、明石から播磨地方の名工であった清水理兵衛という瓦職人を招いて瓦を焼かせたことがきっかけです。この十数年後、1624~43年(寛永年間)に西淡町津井地区で法華宗本山尼崎本興寺の貧困救済のために瓦製造を始めています。これが近世の淡路瓦の始まりといわれています。以来、淡路島で瓦作りが広まり、「いぶし瓦」が主流となり全国のいぶし瓦シェアは1位を誇っています。

姫路白なめし革細工

白なめし革は、馬具や鎧の材料として戦国時代末期から安土桃山時代にかけて使用され、「播磨の白なめし革」として全国に広まっていました。その後、江戸時代に参勤交代において江戸に向かう西国諸大名の本陣が置かれた室津(たつの市御津町)で、その装飾性を生かして煙草入れや文庫などの身の回りの繊細な「細工物」が作られるようになったのが、白なめし革細工の本格的な生産の始まりといわれています。

 

出石焼
播州毛鉤
大阪唐木指物(※)
有馬の人形筆 
有馬籠
兵庫仏壇
姫革細工
城崎麦わら細工
丹波布
名塩紙
美吉籠
赤穂雲火焼
しらさぎ染
姫路仏壇
姫路独楽
姫路張子玩具
丹波木綿
三田鈴鹿竹器
播州鎌
播州山崎藍染織
赤穂緞通
稲畑人形
皆田和紙

※大阪唐木指物は製造地域が広域(兵庫県、大阪府、福井県、奈良県、和歌山県)にわたる工芸品。

 

 

「Hyogo craft」が手掛ける兵庫県の伝統工芸品

私たちは2011年から産地を巡り、さまざまなつくり手と出会う中で、たくさんの商品開発や国内外へのPRを行ってきました。

「Hyogo craft」は、そんな活動を束ねて始まった、兵庫の地場・伝統産業から新たなライフスタイルを生み出していくローカルクラフトプロジェクトです。

職人との商品開発から、産地や地域文化を紹介するメディア、商品の販売、使い方の提案をするオンラインショップまで。心を込めて生み出された、長く愛せるものをお届けしています。

作る人と使う人、伝統と日常、モノと物語など、さまざまなものが重なる交差点に。
そこには便利や快適を超えた、豊かな暮らしがあるはずです。

Daily

毎日使いたい、スタンダード。

長い年月の間、産地で毎日作られているスタンダードなものを使いやすい大きさ、使いやすい量、近くに置いておきたいパッケージに工夫して作った毎日使いたいアイテムをとり揃えました。
長く愛されるものにはどれも理由があり、暮らしの道具や文化的なものなど、“使う”ということを考えて作られたものばかり。
デザインをして新しいものを作るのではなく、今あるものをよりよくする。シンプルで飽のこないDailyをお楽しみください。
今日も一日いい日でありますように。

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Ku

空気を彩る新しい香りのカタチ

「Ku【クウ】」は火がついていなくても香りを放つ和紙のお香です。淡路島のお香産業がもつ高い技術により、和紙に香料を含ませて漉(す)くという技法で誕生しました。
日本には古くから何処からともなく漂ってくる香りを楽しむ、空薫(そらだき)という文化があります。壁に飾って空間を彩ったり、手紙に添えて大切な人に香りを届けたり、焚いてくゆる香りを楽しんだり。
お香と和紙が出会い、暮らしに寄り添う新しい香りのカタチができました。

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王地山焼

伝統と現代の融合から生まれた磁器。

江戸時代末期の文政年間(1818~30)に誕生した王地山焼。一度は途絶えてしまった窯を100年以上の時を経た昭和63年(1988)に復興。
独自の緑色の青磁、青白磁、白磁の釉薬、鎬(しのぎ)、面取、フラットの技法を使って今の生活に使いやすいサイズ、形にリニューアルしました。
磁器独特の軽さ、薄さを兼ね備えたベーシックな形はテーブルを彩る新たなスタンダードとなる器です。

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Hyogo craft

私たちは2011年から産地を巡り、さまざまなつくり手と出会う中で、たくさんの商品開発や国内外へのPRを行ってきました。
「Hyogo craft」は、そんな活動を束ねて始まった、兵庫の地場・伝統産業から新たなライフスタイルを生み出していくローカルクラフトプロジェクトです。

職人との商品開発から、産地や地域文化を紹介するメディア、商品の販売、使い方の提案をするオンラインショップまで。心を込めて生み出された、長く愛せるものをお届けしています。

作る人と使う人、伝統と日常、モノと物語など、さまざまなものが重なる交差点に。
そこには便利や快適を超えた、豊かな暮らしがあるはずです。